何気なく土曜日に競馬中継を見ていたら、CMで「最後の10完歩」が流れて驚きました!
どうも、2011年JRAブランドCMに「最後の10完歩」が復活することになったようです。
昨年、当ブログで紹介したとおり、僕が大好きな映像なので嬉しいです。

このCMは何度見ても見入ってしまい、目頭が熱くなります。
ただ人馬が一体となって走るシーンをスローモーションにしただけですが、余計な情報がない分、積極的に心がシンクロしていけると思います。

「それぞれの競馬がある」というCMの言葉。

ご覧になっている方には、競馬関係者の方やファンの方、ファンの中には、純粋なお金儲けとして参加しているファンや、競馬のドラマやロマンを中心に馬券も愉しむファン、一部には情報発信媒体を持って競馬を伝えるファンなど様々いるでしょうか。このCMを見ながらあなたにとっての競馬はどんなものか、自問してみるのも良いかもしれません。

ちょうど、若愉で活動中のgachalingoさんが自身のブログ「半熟卵の冒険」(いい加減“煮卵”だろうという声もあり(笑))にて、「ギャンブルとしての競馬を肯定するには」と題した競馬論を展開されているのでご紹介させて頂きます。(リンク切れ)

僕の所感としては、ギャンブル=馬券で話が展開されている点について、「ギャンブル」という言葉には知性がなく、「馬券」という言葉には知性が含有され得るというように感じます(もしかしたら、これまで自分もギャンブル=馬券のように表現したことがあるかもしれませんが修正します)。僕にとって、予想芸術を追求した結果カタチとなる“馬券”は、頭の中で想像していた情景をキャンバスに描いた作品のようなものであるように、熟慮を極めた後に購入された競馬ファンの馬券は、単なるギャンブルを超えたもの、gachalingoさんの言う『想像力(imagination)と情念(emotion)の塊り』なのでしょう。

僕の周囲には、競馬に対し、馬が好きなだけで競馬番組を見るけれど馬券は買わないという稀有な方がいます。でも、馬券抜きということはイコールギャンブル抜きで競馬を捉えている方の存在を嬉しく思う反面、競馬のより深い部分をその方と共有できない分共感できないし、その方の純粋らしい馬への愛が、馬券を買う競馬ファンのimaginationとemotionの塊りに敵うとは決して思えないのです。

gachalingoさんの記述の冒頭で立川氏が自分にとっての競馬を問われ、「馬券です」と即答したことは、競馬は単なるギャンブルであると言っているのではなく、そういったimaginationとemotionの塊りを含んだ、競馬の奥深さを主張する回答だったのではないでしょうか。

競馬のギャンブル性を前向きな方向に受け入れられるためには、ギャンブルではなく投資であるなどと言っても逆効果で(結局、お金儲けの着眼点しかないため)、馬券の中にあるimaginationとemotionの塊りを伝えること、そもそもそれらを含んだ馬券とギャンブルがイコールで繋がっているのか、もしくは繋がっていないならどのようにすれば繋がるのか、そういった観点から進めていけば良いのかなというふうに思いました。

さて、自分にとっての競馬について。CMの最後に出てくる「人生のように」を見て、「人生が競馬の比喩である」と言った寺山修司氏を思い出し、自分も「僕にとっての競馬は人生そのものである」くらいに格好付けた表現をしてみようかと思いましたが、流石にそこまでは言えません。しかし、

「僕にとって競馬は、自身の創作欲求を夢に昇華させてくれた舞台である」

というくらいは言えると思います。

2011年01月11日