競馬予想の社会的地位向上がなぜ必要なのかわからない、とのご質問がありましたのでお話したいと思います。

競馬に対する一般人的なイメージというのは、今も変わらず「ギャンブル」だと思います。これは、競馬をやらない人からすれば、長くやれば必ず負けるようにできているものであって中毒性もあり、やめられないのは馬鹿か自己管理ができないからではないか、といったマイナス面を中心に連想されると思います。

ギャンブルと言えば、パチンコで借金地獄になった話とか、子供を車に置き去りにして死なせたとか、会社の金を使い込んだとかそういったニュースがあるので、ろくなことがないと思ってしまうのも理解できるのですよね。
このような背景から、競馬が趣味だというだけで、あまり良く思われないように思います。

例えば、競馬ファン自身にしても、例えばお見合いの席で趣味を聞かれて、「競馬」だと答えられるか、考えてみると良いと思います。
さらに、これが仕事だとした場合、お仕事は何ですかと聞かれて「競馬予想です」とはなかなか言えないですよね。まともな人間と思われないのではないかと考えてしまいます。
これが、私が競馬や競馬予想の社会的地位を向上させたいと思う動機のひとつです。

この方面での活動では、競馬予想は突き詰めれば的中率も回収率も上がってプラスにもできるといった、知的な娯楽であることを伝えるために、長くやれば必ず負けるものではないことを、理論でも実践でも証明するとともに、競馬予想家がその成績も含めて客観的に評価される土壌作りとして競馬予想家協会を立ち上げました。

競馬予想家を社会的存在として認めていくことで、パリミチュエルの壁を乗り越えられる期待もできます。つまり、優良な成績を打ち出せる予想家を表に引っ張り出すことができ、予想をその内容を含めて評価していくことで、競馬予想自体の文化の向上を図っていけると思います。

例えば、将棋であれば、ある棋士が素晴らしい手を見出したとして、それで一局を勝ったとしても、それに対抗する手が新たに研究されていき、その蓄積や相乗効果で将棋という技芸は高められてきました。予想家が壁に閉じこもってしまうと、競馬予想という技芸は各人の領域でしか発展しません。それはもったいないし、同じ趣味を楽しんでいる人が多くいる中で、つまらないように思うのです。

競馬予想の「芸術化」とは何か、ということもよく聞かれます。当初考えたときに適切な言葉が見つからず、「芸術」という言葉にしましたが、今は「芸道化」が一番しっくりくるように思っています(「技芸」、「芸当」などもあります)。
要するに予想技術の巧みさを客観的に評価されるものにしていきたいということですね。

ご不明な点等あればご質問をお待ちしています。

2016年09月16日