久しぶりに芸術化の雑談です。
最近は競馬予想士を棋士のような存在にしていきたいと言ったり、将棋に例えることが多いのですが、世の中のスポーツや芸術等の全体はふたつの種類に大きく分かれていて、競馬予想と将棋の間にも大きな違いがあることに気が付きました。

それは、相手が必要であり、お互いに直接影響を与え合って勝敗や評価が変わってくるものかどうか。

将棋は、もちろん戦型に個性が出ると言われていますが、相手が攻めてきたら受けなければいけませんし、相手の出方次第で戦法を変える必要もあります。
武道や球技のスポーツ、野球やサッカー、バレーボール、テニス、卓球なども同様に、相手がいなければ始まりません。

一方、その対比として、個人あるいは団体が何かをして、それがある一定の基準に従って評価され、優劣が決まるものがあります。
陸上、マラソン、水泳、フィギュアスケート、スキージャンプなどが思い浮かびます。芸術の多くもこちらに含まれるのではないでしょうか。

競馬予想も後者ですよね。予想大会で1位になるために穴を狙う、という思考が働けば前者な部分も出てくる気がしますが、それくらいの戦略は後者のスポーツ等でもあるでしょう。

競馬の話に戻りますと、現状の予想大会は回収金額で勝負が決まってしまうものが大部分で、そうすると戦略上極端な穴を狙って、嵌った人が優勝するという偶然性の高い評価基準になってしまいます。

なので、競馬予想を芸術化あるいは競技的なものにするためには、もう少し深みのある評価基準を作る必要があると考えます。
いかなる評価基準を作るかが、競馬予想を発展させるポイントになるような気がします。

「ただ儲かれば良い」という精神性では、特にこれからの世界では拓かれません。

美しく正しく、精緻な予想をしたいと思っています。
私も現状では見当違いの見立てをすることもまだまだありますが、適当なことを言わないように気をつけています。
同じ馬券を当てて、一方は予想の見立てが完璧、一方は嘘だらけだったら、競馬予想としての評価は異なってしかるべきではないでしょうか。

2010年01月22日