競馬予想において最も重要な要素は何かという事を考えた場合、一般的には、的中することと儲かることが求められているのではないだろうか。
競馬予想は馬券を購入する事が前提になっているため、的中して儲かったほうが良いに決まっている。最初から的中せず儲からないと分かっていたら、馬券など誰も買う人はいないだろう。

競馬には、ギャンブルの要素がある。それは間違いないし、どんなレースにも絶対はない。
しかし、ギャンブルだからといって、運頼みだけで馬券を買う人は少ない。
多くの競馬ファンは、意識的にせよ、無意識にせよ、馬券を購入する際には何らかの情報を求めている。
競馬新聞の馬柱、コメント、その日の馬場状態、パドック、オッズ、出目、サイン、独自理論、記憶の引き出しなど、自分がそれを信じ、購入の根拠に出来るものなら何でも良い。
どの情報に重きを置くかは、その人次第であり、結果的に的中した場合は、その判断が正しかったと思い、運だけで当ったとは思わない。
馬券を購入する際の根拠を求める行為、それが予想だと思う。

冒頭に書いたとおり、競馬予想に的中して儲かることを求めるとすると、予想の行き着くところは、当然の事ではあるが、勝つ可能性を高めることであり、負ける可能性を低くすることである。
その過程には多種多様な技術や深遠な世界があるのだが、これまで競馬予想の優劣は的中という結果のみが賞賛され、予想の過程は切り離されてきた。

予想大会を例に考えてみても、一定期間内に一番資金を増やした人が優勝し、どのような予想をしたか、その過程まで問われるケースはなかったのではないだろうか。つまり、高額配当の馬券が当たりさえすれば、仮に、その予想根拠が自分の誕生日と同じ数字を購入したものであったとしても優勝できるものであり、必ずしも予想の技量を競う大会とはなっていないのだ。
「結果として、資金を最大に出来ない予想なのだから、予想の技量が劣っていたのではないか?」という疑問を感じる方も多いと思うが、評価の全てを結果に委ねてしまってきたことが、本当の意味での競馬予想界の発展を妨げてきたのではないだろうか。
スポーツ新聞の広告欄を賑わす予想業者が、予想の根拠を述べることなく、的中実績だけを羅列しているのも、現在の競馬予想界においては、結果を偏重する傾向が強いことを裏付けている。

競馬ファンであれば、競馬に対する世間のイメージの悪さを肌で感じたことは少なからずあると思うが、当たればなんでもいいという風潮が、結果として、競馬のギャンブル的な側面をクローズアップし、競馬ファンの地位さえも貶めてきたのではないかと思うのである。

ギャンブル的な側面をクローズアップしてしまっている点については、予想技術が高いとは思えない競馬記者や競馬ファンを自認する著名人が競馬関係のマスメディアで予想を行うことが多いことも助長しているだろう。

インターネットの世帯普及率が約9割とも言われる現代において、競馬ファンは自分のサイトやブログ等を使って自分の予想を情報発信できるようになり、予想を有料化にすればプロとして活動できる環境が整ってきている。

しかし、今の競馬予想は、儲かる予想であることだけをアピールするものが殆どであり、その根拠面をアピールするものは極めて少ない。有料予想業者の殆どが、元調教師、騎手等の競馬サークル関係者を抱えていることを全面に出しているように、予想の提供を受ける側も、その根拠については深く考えず、尤もらしいインサイダー情報に踊らされ、高額の会員費用を投じているケースが多いのではないだろうか。
この「予想する側が予想技術の有無を問われない」という背景から、高額の的中実績をアピールして入会金を稼ぎ、時期をみて姿をくらましては、新しい業者でやり直す、いわゆる悪徳予想業者が出現しやすい土壌が作られてしまっている。

もちろん、予想業者が全て技術を持っていないと言うつもりはないし、インサイダー的な情報にも有用なものはあるだろう。しかし、読者に認められるほどの予想技術に達した予想家は顧客を囲い込む傾向にあるため、予想技術の存在については世間一般には広がりにくいというジレンマが生まれ、予想家の相互交流が起こりにくく、技術の向上を妨げてしまう。

そろそろ、競馬予想に過程、技術の評価を含めていく時期に来たのではないだろうか。

予想を提供する側、提供を受ける側の認識に一石を投じるためには、予想技術の優劣を客観的に評価する一定の基準が不可欠となる。
予想の評価を行うために評価基準を作れば、現在ある様々な予想手法の中から、例えば、出目やサイン等、客観的合理性の認められにくい予想手法の価値が下がってしまう可能性は高いが、予想は購入の根拠にできるものであることを前提とすれば、予想の優劣を評価するためには、客観的合理性が重要になるのは当然であると考える。
この試みは予想の画一化を目指すものではなく、客観的合理性に基づく予想過程と技術を求めつつ、独自の予想を表現していく道を作ることを目指すものである。

地道な活動ではあるが、後々には競馬が単なるギャンブルではないことを広く伝え、競馬ファンの社会的地位向上にも繋がり、予想家にとっても、例えば、将棋界における棋士のような、周囲から認められる地位を確立することを期待できるのではないだろうか。

予想家は自らの理論が競馬ファンの研究に晒されても、常に予想力を磨くことで彼らに先んじることによって、本当の意味での予想プロとしての尊厳を得ることができ、各予想家がその技術力と表現力(芸術と呼ばれるものにまで高められるのではないか)を競い合う。そのような環境作りを見据えて、競馬予想における根拠の重視及び評価基準作成を提言したい。

2009年02月14日